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いま、親のいまを知ろう。

いま、思う私の介護
体験記
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人生の一部のように
自然に両親の介護を
受け入れることができました。

人生の一部のように
自然に両親の介護を

受け入れることが
できました。

中谷 香さん

東京郊外で生まれ育った中谷香さんに
ご両親の介護や看取られた経験、
またそのときどきの思いについて語っていただきました。

目次

  1. 二人三脚で働き、暮らした父母
  2. 子どもの頃は大家族
  3. 自分の職業を全うした父
  4. きちんとして逝った母
  5. 10年で介護を取り巻く
    状況は変わった
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二人三脚で働き、暮らした父母

美術サークルで出会ったふたり
 父は戦争へ行きました。終戦後画家になり、美術サークルで母と出会います。美術の先生をするかたわら制作活動していた母は、父を支えるために結婚後家に入りました。スケジュールの管理や税金といった事務管理などを一手に引き受け、必要ならば外出に同行するなど秘書のように、マネジャーのように寄り添っていました。文字通りの二人三脚。母が父の仕事に理解があったことから、父は母によく相談していて、ふたりは本当に仲良く働き、暮らしていました。母は自宅で約40年間絵画教室も開いていました。
 父は独立したアトリエを持たず、居間の一角で絵を描いていました。あるとき、父のそばで私があくびをしたんです。そうしたら「お父さんが一生懸命に仕事をしているのに」と、母にピシャリと怒られたことがあります。きれい好きで、整理整頓もしっかりしていて、本当にちゃんとした母でした。
中学生になったときから
自分のことは自分で
 私より父のサポートに手がかかることから、中学生になった途端に母から「洗濯も掃除も、全部自分でやりなさい」と告げられました。「口も出さないから勝手にやりなさい」、独立独歩にしなさいということでした。それからは、日常の家事はもちろん衣替えといった季節の支度などもすべて自分でやっています。家は父が中心で、何よりも父の仕事が優先されます。来客が多い家で、小さな頃から家のお手伝いはすごくしていたので、このことはとても自然に受け入れられました。
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子どもの頃は大家族

年寄りとの暮らしが当たり前だった
 私が子どもだった頃は、大家族でした。戦後の住宅難もあってか、周囲も大家族のご家庭は多かったですね。うちは祖父母に加えて、曽祖母も一緒に暮らしていました。曽祖母は当時としてはとても長生きしてくれて、90歳まで存命だったんですよ。祖父母の死も、身近で経験しました。年寄りとの暮らしがずっと当たり前だったこともあって、その後の両親の介護も人生の一部のように自然に受け入れることができたように思います。
インテリアコーディネーターになる
 大学を卒業する頃、友人から「インテリアコーディネーターという仕事があって、新しく学校ができたから一緒に行かない?」と誘われました。興味があったのでその専門学校に進み、建築インテリア関係の仕事に就きました。お客さまの要望をかたちにしていくのですが、家具だけでなく木材の材質の選定から屋根の仕様、防水工事のことまで幅広い内容で、忙しくハードでしたが充実した毎日でした。
 そんなあるとき、70歳後半になっていた父が体調を崩したんです。一時的な不調だったので、その後も仕事は続けられましたが、母も歳でしたので仕事や家のこと、さらに父のケアをひとりでするのは大変です。母の負担を減らし両親を支えようと考え、思い切って会社勤めを辞めてフリーになり、母の仕事や家事を引き受けることにしました。体調を持ち直した父は穏やかに、ときどき忙しくしながら変わらず仕事を続けました。
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自分の職業を全うした父

母と毎日交代で病院へ
 父は、本当にやさしい人で、すごく可愛がってくれました。家で仕事をしていることもあって小さな頃、朝から晩まで相手をしてもらった記憶もあります。そんなふうにたくさん愛情を注いでもらっていたから、父の介護は自然にできました。徐々に衰えてはいきましたが長く寝込むこともなく、介護らしい介護をしたのは90歳過ぎに亡くなる前、わずか1年ぐらいです。
 最後は入院したのですが、少し認知症の症状があったので、混乱して看護師さんや他の患者さんに迷惑をおかけしてはいけないと考え、付き添いの申請をして母とふたりで病院へ通いました。100日くらい入院していましたけれど、私が病院に行かなかったのは3日間ぐらい。母もまだまだ元気でしたので、ふたりで交代しながら一生懸命介護しました。
父にはかわいそうな思いを
させてしまった
 当時すでに介護保険はありましたが内容の理解は進んでおらず、私たちも医療保険とどう連携するのかといったことは知りませんでしたので、ずっと病院にお世話になりました。先生が「これをしましょう」といくつかの手術や処置をしてくださったのですが、すべてがうまくいくことはなくて、体調を悪くしたり、出血が止まらなかったり、父にはちょっとかわいそうな思いをさせてしまいました。90歳を過ぎての治療の判断は、難しいですよね。
 それでも父は亡くなる2年前までは絵を描いていましたから、自分の職業を全うした良い人生だったんじゃないかな、と思っています。
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きちんとして逝った母

元気でアクティブな母
 父にずっと伴走してきた母は、父が亡くなった後「自分の居場所がなくなったみたい」と言っていましたが、2、3年経つとカルチャーセンターに行ったり、いろいろな友人と遊ぶようになりました。お出かけに私が付き合うこともありましたが、もともと健康で60代の頃からしばらくは同世代の方々と遠足のように山登りを楽しんでいました。結構本格的で山小屋に泊まったりしていたんですよ。また母の同級生のみなさんがすごくお元気で、優秀で、長生きで。月に1回、プチ同窓会のように集まって、楽しい時間を過ごしていました。自分の歯で何でも食べていましたし、認知症の気配もまったくなくて、常にシャキッとしていた母でした。
最期は自然に
 90歳を過ぎた頃、母は乳がんになります。全然痛くなかったようなのですが、私が触ってもわかるくらい大きなしこりができていて。手術をして成功したのですが、再発して。抗がん剤治療を受けましたが、「調子が悪くなるからいやだ」と言うので、年齢的にも無理はさせたくなくて止めました。
 でも、ずっと元気だったんですよ。「痛くも痒くもない」なんて言っていました。長期入院をすることもなく、最後の2カ月間は訪問看護などをお願いして在宅で介護しました。本当に普通におしゃべりしてご飯を食べて、お風呂にも入っていたんです。本当に調子が悪くなったのは、亡くなる前の2日間だけ。それでも、当日もおしゃべりしていたんですよ。それが急に息が激しくなり、そのまま亡くなりました。その30分前まで普通だったのに。
 母は、引き出しや何もかも整理して、何が入っているかわかる状態にしてくれていました。「きちんと生きた人は、きちんと死んでいくのだな。私も心がけないと」、なんて思ったことを覚えています。
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10年で介護を取り巻く
状況は変わった

私たちのときはもっと良くなっている

 父が亡くなった約10年後に母が亡くなったのですが、わずか10年の間に介護を取り巻く環境はずいぶん変わりました。父のときは介護保険のことはほとんどわからず、多くを知らないままだったので、恩恵を受けられていなかったと思いますが、母のときはケアマネジャーさんに一言伝えたら、サッとスムーズに対応して整えてくださり、在宅介護もストレスなくできました。
 地域包括支援センターの存在もケアマネジャーさんに聞きました。昔は家族でどうにかしなければならなかったことが、今ではワンストップで医療や介護、福祉サービスなどトータルに生活支援を受けられるというのは良いことですよね。いろんな家族の形態がありますから。私たちのときはもっと充実しているでしょうから、安心してもいいですよね。

※この記事の内容はすべて2024年10月の取材当時のものです。