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いま、親のいまを知ろう。

いま、思う私の介護
体験記
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だんだんと衰えていくとき
そこにどんな生きる「かい」を
持ち続けられるか、と考えました。

だんだんと衰えていくとき
そこにどんな
生きる「かい」を

持ち続けられるか、
と考えました。

株式会社 暮しの手帖社
横山 泰子さん

株式会社 暮しの手帖社は、1948年に出版された総合生活雑誌『暮しの手帖』をはじめ、暮らしにまつわる書籍を出版している出版社です。横山泰子さんは現在、嫁ぎ先の“家業”である暮しの手帖社の代表取締役社長を務めています。
義父母や伯母など、幾人もの家族のこと、その都度に考えたことをお話しくださいました。

暮しの手帖社
オフィシャルサイト▶

目次

  1. 嫁ぎ先は
    『とと姉ちゃん』のモデル一家
  2. 「安楽死というものを
    どう思う?」と父から手紙が
  3. 義父の介護で疲れ切っていた
    はるこさん
  4. 最期まで編集者だった、
    しずこさん
  5. しずこさんを支え続けた、
    よしこさん
  6. 明るく真面目だった、
    はるこさん
  7. 幾人もの家族を見送って思うこと
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嫁ぎ先は
『とと姉ちゃん』のモデル一家

『暮しの手帖』と大橋三姉妹
株式会社暮しの手帖社の前身は衣裳研究所と言い、大橋鎭子(以下しずこさん)と花森安治によって1946年に創業されました。1948年に『美しい暮しの手帖』を創刊(のちに誌名を『暮しの手帖』に変更)、社名も現在のものに変えました。雑誌や会社のこと、創業者のふたりについては2016年にNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』のモデルとなったことで、多くの方に知っていただけるようになりました。しずこさんは、三人姉妹の長女、次女が晴子(以下はるこさん)、三女が芳子(以下よしこさん)です。私は、はるこさんの長男と結婚しました。
テレビをご覧になった方はご存知だと思いますが、『とと姉ちゃん』の“とと”とは、「父親(とと)」のこと。しずこさんが10歳のときに亡くなった父親が遺した「お母さんを助けて、妹の面倒をみるように」という言葉を守り、少女の頃から家族を支えたしずこさんの呼び名です。その名の通り、しずこさんはずっと、最後まで大橋家の家長でした。
大橋三姉妹とお母さま
しずこさんが著した唯一の自伝です
戦後に建てた家で、
ずっと暮らしていた
ここ(東京都品川区)は三姉妹が幼い頃、昭和の初めに越してきてから、ずっと住んでいた場所です。戦後に家を建て、改装や増築をしながら暮らしていました。しずこさんとよしこさんは生涯独身で、はるこさんは花森さんの友人で衣裳研究所の創業メンバーのひとりである横山啓一と結婚後も、一緒に住んでいました。
私たちも、結婚後しばらくしてから同じ敷地内に家を建てここに住んでいます。ケンカしながらも、とにかく仲の良い、結束の固い姉妹でした。亡くなるまでみんな一緒でした。
三姉妹が暮らした品川区の自宅
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「安楽死というものを
どう思う?」と父から手紙が

「結婚させるのも自分の仕事」
と言う父
私は大学を出た後、新聞社のイベント関係の部署で働いていました。結構忙しくて、楽しかったのですが、父は「娘を結婚させるのも自分の仕事」という人で(笑)。一生続けられる仕事だったらいいけれど、「ふわふわしてるなら、結婚しろ」と、いくつも見合いをさせられ(笑)、主人、そして大橋三姉妹、『暮しの手帖』と出会いました。
父は大正生まれの技術者でした。理系だったので戦地へは行かなかったのですが、文系の友人の多くが戦死したそうです。だからなのか、無駄に生きていることに何か後ろめたさのようなものがあり、何事も計画的に、しっかり遂行すべき、と考えていたように思います。あるとき突然、「安楽死というものをどう思う」と手紙を送ってきたことがあります。「一定以上の年齢になったら、自死の権利を認めてもいいのではないか」と。娘にこんなことを言う人はあまりいませんよね。とにかくきっちりと考え、行動する人でした。
自分でホスピスを予約
家じまいや資産の整理も完璧でした。70代半ばに家を小さく建て替えて、余分な地所は処分。二人姉妹の妹と私がお正月などで実家へ帰るたびに「うちの資産は今これだけだ」と一覧にしたものを見せながら、通帳、印鑑、重要書類の場所を毎年確認させられまし た(笑)。晩年、父は末期の肺がんとわかると、嬉々として、と言うと語弊がありますが、自らすすんでホスピスを予約します。子どもや孫に弱っているところを見せたくない、という一種の美学があったようです。そんなふうだったので、介護らしい介護はほとんどしていません。母が寄り添い、すべてやってくれていました。
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義父の介護で
疲れ切っていたはるこさん

家族でどうにかする
義父は若い頃から、糖尿病を患いながらもコントロールし長生きしました。亡くなったのは1999年、88歳でした。その数年前からは週に3回人工透析に通っていて、体調を崩して入院することもしばしばでした。
介護は母屋で、はるこさんが英ちゃん(戦後すぐから大橋家で働いている家政婦さん)と一緒にしていました。何かあると昼間ははるこさんがタクシーで病院に連れて行っていましたが、夜は「泰子さん、病院へ連れて行って」と離れの私に声がかかり、車を出していました。そのとき「あっ、しばらくビールを飲んだらダメだわ」と思いました。体調が急変するかもしれない家族がいるというのは、そういうことなんだと。今なら、すぐに救急車を呼ぶのでしょうが、その頃は「家族でどうにかする」という意識が強かったと思います。
はるこさんと啓一さんと子どもたち
他人に頼るのは
「恥ずかしいこと」?
それは介護にも言えます。義父は明治、三姉妹も大正生まれなので、ヘルパーさんのお世話になったり、老人ホームに入るということを現実的に考えてはいませんでした。他人に頼るのは何か「恥ずかしいこと」と思っていたようです。でも、家族が大勢いて、その中に頻繁に入退院を繰り返し、いつどうなるかわからない状態の義父の介護があるというのは、家政婦さんがいるとはいえ大変でした。「誰か手伝いの人を頼みましょうよ」という言葉をはるこさんに言いそびれているうちに、義父は亡くなりました。もしあのままだったら、はるこさんは倒れていたかもしれません。ギリギリだったと思います。今から四半世紀前のこと、「誰かに頼る」ということが一般的ではなかったんですよね。
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最期まで編集者だった、
しずこさん

90歳を過ぎても出社
2003年83歳のときに暮しの手帖社の社長を退任した後も、出社を続けていたしずこさんですが、少しずつ物忘れが増えていきます。毎週土曜日に、母屋の三姉妹と離れの私たち家族(夫と娘と二人の息子)で夕ご飯を食べていたのですが、気になることが多くなりました。とはいえ、身体は元気で自分の意志があり、毎日会社へ行って、外出も頻繁にしていたので、何らかの手立てをすることもできずにいました。そんななか、しずこさんは90歳を過ぎたときに会社で転倒します。それまでもしばしば転倒していました。お買い物好きでよく出かけていた銀座でも4〜5回は転んでいます。「危ないな」と思っていましたが、「出歩かないで」とは言えず・・・そうこうしているうちの転倒でした。幸い骨折はなく、10日ほどの入院でしたが、退院後にはほとんど寝たきりになりました。
『暮しの手帖』でしばしばモデルをしていたしずこさん
「今、お料理の企画を
考えてるの」
しずこさんが体調を崩す前から、かかりつけ医の先生に来てもらって予防接種などを三姉妹まとめて打ってもらっていました。そのお医者様のすすめもあり、「もともと丈夫な人だから、栄養をつけたらまた起き上がれるかも」と話し合い、胃ろう(直接胃に栄養を注入する処置)をすることにしました。退院後は、先生を中心に訪問看護師、ケアマネさん、ヘルパーさん、薬剤師さんなどがチームでしずこさんをサポートしてくださり、胃ろうの栄養剤注入作業は、平日は訪問看護師さん、土日は私がやっていました。
しずこさんはほとんどの時間をベッドで過ごすようになっていましたが、本を見ながら「今、お料理の企画を考えているの」と言ったりしていました。そこはやっぱり忘れない、「ずっと編集者なんだな」って思いましたね。退院後1年ほど過ぎた頃、胃ろうのおかげで栄養が巡って良くなったのか肉体的に元気になってきたので「ひょっとしたら歩けるようになるかも」なんて話していたんですが・・・その願いは叶わず亡くなりました。93歳でした。
60年以上前に作られたキッチンは、今も現役
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しずこさんを支え続けた、
よしこさん

一番気落ちしていた
よしこさんは、21歳のときから暮しの手帖社で働き始め、編集のデスク(マネジャー・管理者)として原稿チェックや経費の管理などを担当していました。会社へもしずこさんに寄り添い、いつもふたりで仲良く通っていました。だからこそ、しずこさんが亡くなったときに一番気落ちしたのがよしこさんです。
その1年ほど前に編集部の古参スタッフのひとりが亡くなっていたこともあってか、すっかり元気がなくなり、「ご飯ですよ」と声をかけても、なかなか自室から出てこなくなりました。今で言う老人性うつの状態だったと思います。「何か始めたら?」「好きなことしたらいいのよ」と、家族は声をかけたりもしましたが、ある程度の年齢になってから新しいことを始めるのは、大変なことなんですよね。80歳を過ぎてまで続けられる仕事があったことは、幸せなことだったろうと思う反面、独身で、会社以外の付き合いも少なく、しずこさんを支えるのが仕事の人だったので、その喪失感の大きさで自分のことを考えられなくなっていたのかもしれません。
孤独でいる方を選んでいった
しずこさんは良くも悪くもおおらか。よしこさんは末っ子でしたが、甘えっ子というよりまわりの人にすごく気を遣う人でした。例えば旅行へ行くとき、ギリギリにワっと準備して電車に飛びのるしずこさんに対し、「事前にきちんとやんなきゃ」と叱るのがよしこさん。よしこさんは、気難しい編集長の花森さんのサポートも随分したそうです。気質的に細かくきちんとした人でした。でも、しずこさん亡きあと、英ちゃんが毎日ご飯を作って、声をかけて、一緒に食べて、テレビを見ようと誘っても、すぐに部屋に戻ってしまう。どこへも行かない。家族としてかける言葉がありませんでした。今思えば、よしこさんは自分で孤独でいる方を選んでいたのだと思います。
家族が外出から帰ったときに様子がおかしく、お医者さまを呼びましたが、誤嚥で亡くなりました。しずこさんが逝った1年後、88歳でした。
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明るく真面目だった、はるこさん

大正時代の少女のようだった
はるこさんは編集部で働いた後、26歳で横山さんと結婚して家に入り、子どもをふたりもうけます。三姉妹とその母、夫と子ども、家政婦さんの8人、大家族の主婦です。家族の状況もあってか、小さな頃から模範生でいなきゃ、という気持ちが強かったみたいで、何をするのも真面目。姉と妹が働いているからか、ちょっと引いた立場でのふるまいを意識していたように思います。「もっと自由でいいのに」って私は思っていたんですけど。でも、もともと明るい性格。よく鼻歌を歌ったり、80歳を過ぎてから若い俳優のファンになってサインをもらって喜んだりして。可愛いですよね。大橋三姉妹は、みんなそういうところがありました。ピュアで、きれいなものやことが好きで、ちょっと世間知らずで。いつまでも大正時代の少女のようでした。
姉妹はみんな身体が丈夫で、病気らしい病気はしていませんが、はるこさんは後年パーキンソン病になり、通院やお出かけにサポートが必要になりました。タイミングよく定年退職していた孝行息子(笑)、私の夫がいそいそと送迎役を務めていました。
1950年頃の三姉妹。
右からしずこさん、よしこさん、はるこさん
はるこさんも最期は自宅で
2016年放映の『とと姉ちゃん』を、毎日居間のソファに座って観ていました。「NHKで見学させてもらえるよ、車いすなら大丈夫だよ」ってすすめたんですけど、「じゃあ、行かなくていい」って。あの年代は車いすや歩行車をいやがるんですよね。
比較的頭もしっかりしていて、時間がかかってもお手洗いに自分で行っていたはるこさんも、誤嚥で救急車を呼ぶことに。1ヵ月ほど入院して退院のときに、完全介護の施設か自宅かとなって、迷わず「うちで見ます」と答えました。介護ベッドを入れて、訪問医療をお願いして、といろいろ整えましたが、帰宅後約1週間で亡くなりました。2017年、95歳。三姉妹はみんな、この家で終わりを迎えました。
今でも家にはたくさんの家族写真を飾っています
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幾人もの家族を見送って思うこと

天気のいい日は
お散歩している母
実家の母は、90歳を過ぎていますがひとりで暮らしています。70代後半に思うところがあったのかクリスチャンの洗礼を受け、教会に通うようになりました。教会の行事や俳句の会などで、忙しく元気に過ごしていました。以前は、元気だからしょっちゅう行っても逆にケンカになる、とか言っていましたが、コロナ禍で外出の機会が減ったこともあって少し弱ってきたので、今は妹が週に3回ほど泊まってくれています。
ご飯はずっと自分で作って、ちゃんと食べていましたが、最近は作らなくなり、夜はお弁当を頼んでいます。週2回のデイサービスの昼食は気にいっているみたいです。歩くのも随分ゆっくりになりましたが、ゴミ出しも自分で行き、天気のいい日はお散歩もしています。自分で歩けているのは良いですよね。
2024年春、母と妹と箱根にて
食べることは生きること

幾人もの家族を見送って、いろいろ思うことはあります。まず「年下のお友達を作っておく」ことと「趣味を持っておく」こと。みずみずしい気持ちを持ち続けることは、大切だなって思うんですよね。そして、「食べることは生きること」ということにも、気づかされました。よしこさんは最期食べることが辛そうで、消化のために体力を使っているように見えました。人間の最期は本能的に体が受けつけなくなるということなんですよね。
元気でコロリと逝くのならいいけれど、そうでない場合、だんだん衰えていくときにそこにどんな生きる「かい」、生きがいを思っていられるか、それはどんなことなんだろう、ということも考えさせられました。まだ私にはわかりませんが、これからも考え続けていくと思います。

※一部写真は暮しの手帖別冊『しずこさん』より。
※この記事の内容はすべて2024年10月の取材当時のものです。