介護用品・福祉用具のレンタルと販売 ヘルスレント

いま、親のいまを知ろう。

いま、思う私の介護
体験記
4

私が娘でいることで
母は元気に
いられていると思う。

私が娘でいることで
母は元気に

いられていると思う。

いきいきクリニック 院長
武知 由佳子さん

武知由佳子さんは、神奈川県川崎市で内科・呼吸科、禁煙外来、さらに訪問医療、訪問リハビリテーションに対応する「いきいきクリニック」の院長。13年前にご両親を信州(長野県)から呼び寄せられた後、お父様を看取られ、現在はお母様と暮らしてらっしゃいます。

いきいきクリニック
オフィシャルサイト▶

武知さんとご両親のストーリー
  1. 2007年

    お父様が脳溢血に

  2. 2011年

    ご両親が信州から上京
    川崎市でふたり暮らし

  3. 2013年

    お父様死去

  4.  

    お母様がひとりで信州の実家へ
    車いすで帰省し
    何度も転倒し、骨折を繰り返す

  5. 2022年

    お母様と同居

  6. 2024年

    お母様が脳梗塞
    リハビリ入院を経て
    現在自宅で療養中

目次

  1. 母は自称「信州育ちの江戸っ子」、
    父は関西から信州へ
  2. 「大丈夫よ」母の言葉が
    支えてくれた
  3. たくさんの愛をくれた
    親元から離れて、医師となる
  4. 天国へ旅立った父
  5. 車いすの母との海外旅行
  6. 30数年ぶりに母と暮らす
  7. 「由佳、どうしよう」。
    母との役割が変わっていった
1

母は自称「信州育ちの江戸っ子」、
父は関西から信州へ

祖父は母を医者にしたかった
私は、長野県小諸市出身です。母方の祖父は東京の芝浜松町で輸入会社を営んでおり、母はそこで1940年に生まれました。空襲が激しくなったので家族で南佐久(現在の佐久市)に疎開、その後すぐに東京大空襲でお店も家も燃えてしまったので、そのまま定住したそうです。
祖父は人が良くて、騙されることもあったようですが、アメリカ帰りの紳士でした。戦後すぐに「明子(母の名前)、日本はこれから絶対発展していく。今の焼け野原を目にすることはもうないから、見に行こう」と幼い母を連れて東京に行ったんですって。戦前にアメリカで暮らした経験があってか、ずっと「日本がアメリカに勝てるわけがない」と言っていたそうです。母の性格形成に祖父の影響は大きいと思います。母に「医者になれ」と言っていた祖父は、母が中学生のときに亡くなり、経済的な理由から母は簿記学校へ進みます。
母は増上寺の近くで生まれました
父は人懐っこくて、
おもしろく楽しい人だった
簿記学校を卒業した母は、建築資材の基礎杭を扱う会社の小諸出張所に就職。その大阪支店に勤めていたのが、兵庫県出身の父です。つい最近、母に聞いたのですが「とても優秀だった私に辞められたら困ると思った会社が、パパをお婿さん候補に転勤させてきた」と(笑)。なるほど、と思いました。
父は関西出身だからなのか、「こんにちは」と言ったらもうリビングの扉を開けているような、人懐っこい人。すごくいい人でした。よそ者には気難しい木こりの方にも可愛がられて、「武知くんになら」と良い木材をまわしてもらっていたそうです。子ども好きで、まだ自家用車の少ない時代に、休日も親が働いている近所の子どもたちも一緒に、いろんなところへドライブに連れて行ってくれました。
2

「大丈夫よ」
母の言葉が支えてくれた

母の言葉がけの素晴らしさ
小さな頃の私は小児喘息で、「幼稚園に行きたくない」って毎日わんわん泣いているような引っ込み思案。でも、母はすごいんですよ。「ママが先生に『行きません』って言っても説得力がないから、由佳ちゃんが直接先生に『今日で幼稚園を辞めます』とお伝えなさい」と言うんです。また私も、「それはそうだ」と思って幼稚園に行くんですね。で、行ったら行ったで楽しむ。その繰り返し。とにかく母は言葉がけが素晴らしいんです。喘息で苦しんでいるときはもちろん、どんなときも「大丈夫、由佳ちゃん大丈夫よ」と言ってくれて、私はその度に「ママが言うなら、大丈夫」と思っていました。
幼稚園の頃に、母と同じ書道教室に通い始めました。白い紙に黒い墨、心を決め集中して文字を書く。これで精神的に鍛錬されたと思います。今、医師として、患者様の命の前に立ち、白い紙に黒い墨で書くが如く、心を決めて、専心していく備えが培われたように感じます。
祖父の願いを孫の私がかなえることに
私が「お医者さんになろう」と思ったのは、小学生のときです。ガールスカウトと、あるおばあさんからの手紙がきっかけでした。小学校1、2年生の頃、小諸市のガールスカウトの立ち上げを手伝っていた母に「一日一善、いいことをしましょう。おやつも出るよ」と言われ、おやつに惹かれて入りました。奉仕の精神やリーダーシップなど、今の自分に続く大切なことが身についたと思います。もうひとつは、5年生のときにバスで席を譲ったおばあさんが学校へお礼の手紙をくださったこと。全校生徒の前で校長先生が読まれて、私は泣いてしまった(苦笑)。自分のささやかな行為が、誰かにとっての大きな喜びになったことに驚いてしまったんです。
これらの経験から「人が困っているときに助けられる人になりたい。それは、生死が関わるときだ」と思い至り、医者になろうと決心します。期せずして、祖父の願いを孫の私がかなえることになったんです。
3

たくさんの愛をくれた
両親から離れて、医師となる

18歳、親元を離れる
小諸市には明治時代から「梅花教育」という理念がありました。冬の厳しさに耐え、春に先駆けて気高く咲き、良い香りを放つ梅花を例えたものです。私は中高は一生懸命に勉強しつつ、吹奏楽や副会長として生徒会活動を存分に楽しみました。ヒューマニティに富んだ良い時代、青春でした。
けれど国立の医学部は甘くなくて(苦笑)、親元を離れて1年間浪人生活を送ります。18歳のとき、県外の予備校に行くために両親のもとから離れました。翌年、新潟大学医学部に合格するのですが、ひとりになって、世の中のいろいろなことに悩まされるようになりました。
両親の愛から、より大きな愛へ
私は「世界のみんなが私を嫌っても、この両親だけは私を愛してくれる」という安心感のもと、天真爛漫に育ちました。しかし、大学で親元を離れて初めて、自分の存在が揺れ動かされる経験をします。
そういうなかで、プロテスタントの教会へ導かれ、大学4年生のときに洗礼を受けました。両親の愛から、さらに大きな、神様の愛に触れ、それが今の自分の根幹を成しています。新潟から東京に導かれ、東京都大田区の病院で、ローテーション研修後呼吸器科に勤務。そこで出会ったナースたちと、現在のクリニックを開業しました。
クリニックのスタッフと
4

天国へ旅立った父

東日本大震災の映像を見て
認知症が悪化し、川崎へ
もともと睡眠時無呼吸症候群があり、軽度の脳梗塞を何度か起こしていた父は、クリニックを開業した2007年に発症した脳梗塞で歩けなくなりました。それまで膝の悪い母の車いすを押してくれていた父を、逆に母が押すことになってしまったのですが、それでも、介護の手を借りながらふたりで暮らしていました。
ところが、2011年3月の東日本大震災の映像を見たことをきっかけに、脳梗塞後に見られた脳血管性認知症の症状が顕著に。攻撃的になり、被害妄想や物盗られ妄想も見られたので、もう母だけでは無理と、川崎駅の近くにマンションを用意して呼び寄せ、介護することにしました。月曜から土曜まではデイサービス、日曜日は一緒に教会へ。若い子たちとのおしゃべりは、ずいぶん楽しそうでした。
病床洗礼を受け、天国へ
父は元気な頃、訪れた人を信州のお気に入りの場所へ案内するのが大好きで、友人を連れて帰ると母にお弁当を作ってもらって父と友人と3人で出かけたものです。私の卒業旅行では、ふたりでヨーロッパへ行ったんですよ。その後も、あちこち海外を旅しました。
父との旅は、2013年の神戸が最後です。呼吸器学会が神戸で開催されたので、父のお姉さんたちにも連絡して再会の場にしたんです。母も一緒でダブル車いす(笑)。父は親戚の人たちと会えて、本当にうれしそうでした。
父はその後、誤嚥性肺炎を起こして入院。退院が決まっていたのに、再度誤嚥性肺炎を起こし急死します。最期に病床洗礼を受けて、天国へ旅立ちました。きっと父のことですから、天国があまりにも良いところなので、信州のお気に入りの場所を案内したときのように、天国を案内しようと待ちわびていると思います。イエス様の隣にちゃっかり座って「イエス様、由佳のこと、特別に良くしてくださいよ」なんて、声をかけているに違いありません(笑)。
弟と父と私
5

車いすの母との海外旅行

満身創痍、なのに母は活動的
膝を悪くしていた母は、ずっと父に車いすを押してもらっていました。膝もですが55歳にときにはギラン・バレー症候群(これは私が早期で気づけたので、ほぼ完治)、脊柱管狭窄症で手術を2回。腿骨頸部、上腕骨、膝も骨折しています。骨粗鬆症というのもありますが、活動的というのが問題なんですよね。
15歳から奏でているお箏は大師範、今もお弟子さんがいます。「すみ ゆかこ」のペンネームで絵本も出版しています。父と営んでいた土木請負業を今でも細々と続けていて、(基礎)杭打ちの現場に行けないことが残念だと、出先で杭打ちの機械を見つけると「どこの機械が入ってるのかしら」とキョロキョロしています(笑)。つい最近まで世帯主として自分で確定申告していたんですよ。昔取った杵柄で書類は完璧、珠算1級だからか1円も違ってなかったって、税理士さんも感心していました。84歳の今もエアそろばん(珠算式暗算の一種)ができるって、すごいですよね。
フィンランドの絵本作家との交流
母の作った絵本
旅行プランは母におまかせ
母とは、たくさん旅行しています。私が長期休暇のとれる夏休みや年末年始に、自分たちで計画して行くんです。私は忙しいので研究資料を母に渡して、その土地の歴史や風俗などしっかり調べておいてもらいます。旅行はスタッフも一緒なので、母はさながらツアーガイドですね。車いすでも、公共機関を使うのが基本。大変なこともありますが、好奇心の強い母との旅行は本当に楽しいんです。
シンガポールはふたりだけで旅しました
6

30数年ぶりに母と暮らす

母はひとりっ子、
ひとり暮らしも
まんざらではなかったよう
2013年に父が亡くなってからは、母はひとり暮らし。私は同じ市内のクリニックの上階に住んでいたので、文字通りスープの冷めない距離で、それぞれ独立した暮らしでした。
車いすでもお箏のお稽古のために信州に月に1-2回は行っていました。忙しい私の手を煩わせないようタクシーを手配し東海道線にも新幹線にもひとりで乗っていきます。
実家はバリアフリーではないため、伝い歩きでトイレに行ったりして転倒し骨折すること、数回。あるときは、トイレのスリッパにつまずいて転倒して腕を骨折していながら、7時間かけて居間まで移動。それでも私に電話もしない。翌日に電話連絡があったので、救急車を呼んで病院へ行った方が良いとすすめました。結局、腕の骨は変位していました。
足が悪く車いすのうえに腕の骨折で介護が必要となったため、クリニックの近くにマンションを購入し一緒に暮らし始めました。私にとっては18歳のとき以来の実に30数年ぶりの母との生活です。マンションはペットOKなので、たまたま友人から猫を譲り受け、猫とも暮らし始めました。猫好きの母は、まさかこの年齢で猫と暮らせるなんて!と大喜びでした。
母とはんな
私が娘でいることで、
母も元気でいられる
車いすでも母は私を助けたいと、料理とか洗濯とか進んでやってくれるんです。スタッフや友人が来たら、みんなのご飯までササっと作ってくれて。脳梗塞で入院したときの主治医から「ダメ、お母さんにそんなことさせちゃ」って言われたんですが、母がやりたがるし、私が娘でいることで、母は元気でいられるって思うんですよね。ある程度、頼りにされることで張り合いが生まれるし、認知症の予防に役立つんじゃないかな。ちなみに、母は長谷川式認知症スケール(簡易的な認知機能テスト)は満点ですが・・・。
はんなとたろうと私
7

「由佳、どうしよう」。
母との役割が変わっていった

水分を控えたことで脳梗塞に
変化はありつつも穏やかだった毎日が、この4月に変わります。
母の唐揚げは絶品で、私もみんなも大好き。4月中旬、忙しい私やスタッフたちに、いつものように夕ご飯を作ってくれました。その最中、よろめいた母がフライパンごと倒れて両腕を火傷してしまったんです。もちろん、医師とナースですからすぐに処置しました。両手と両腕で範囲は狭かったのですが火傷は深く、水疱ができて破れ、毎日ガーゼ交換が必要なほどでした。「火傷で体液が失われるから、ちゃんと水分を摂ってね」と言っていたのに、両手で身体を起こす必要があった母は手が痛いからトイレに行くのが大変、と水分を控えてしまっていて。その1週間後、左に力が入らず救急車で病院へ行くと、脳梗塞でした。幸いにもリハビリで左麻痺は改善、現在は当院の理学療法士、作業療法士が家に来てくれ、週4日訪問リハビリを受け、当院の訪問看護師が週1回入浴介助に来てくれています。
「由佳、大丈夫よ」。その言葉で、不安の強かった子どもの私を安心させて育ててくれた母でしたが父の認知症が悪化した頃でしょうか? 母は「由佳、どうしよう」と言うようになり、初めは私も不安になりました。しかし、医療という手段や、在宅のチームに支えられ、今度は、「ママ、大丈夫よ」と、私が母を安心させられるようになったと思います。
母を支えてもらい、私も医師として患者様やスタッフを支える

クリニックのスタッフの親が癌になったり、介護が必要になったり、子どもが熱を出したりします。スタッフみながしっかり親孝行ができ、子供をしっかりと育てられるように、支え合いながら働いています。いきいきクリニックの朝礼は、祈りから始まります。家族が守られ、安心して目の前の患者様に専心できるようにと心を合わせてお祈りします。

COVID-19パンデミックで、私たちは2020年3月から発熱外来を行ってきました。当時は、まだ、発熱者はお断りという診療所や、薬局などがたくさんあり、熱があるのに診てもらえない発熱難民がたくさんいました。まさに医療倫理、モラルが崩壊していました。なにゆえ医師になったのか?困っている人、命の危機に瀕している人を救いたい。私が医師をめざしたときの初心です。
その志がぶれることなく、今までこれたのは、同じ思いでついてきてくれたクリニックのスタッフたちのおかげであり、母の支えがあってこそです。まさに医療者として真価が問われた時代でした。
2024年9月に訪問看護ステーションを立ち上げました。コロナ禍を通り、なるべく入院せずに在宅でという流れは、強くなっていきます。私は、呼吸器科医なので、高齢の方だけでなく、人工呼吸器を必要とする医療的ケア児から、神経難病の方までを担当しています。住み慣れたお家で安心してなるべく入院せずに過ごせるように、仕えていきたいと願っています。
もちろん、母も元気に楽しく、過ごせるように。私ひとりでは困難ですから、支えてもらいながら・・・。

※この記事の内容はすべて2024年7月の取材当時のものです。。