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いま、親のいまを知ろう。

いま、思う私の介護
体験記
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最期まで母とは喧嘩ばかりだった。
でも、親孝行しないのも、
長生きしてもらうコツかもしれない(笑)。

最期まで母とは
喧嘩ばかりだった。

でも、親孝行しないのも、
長生きしてもらう
コツかもしれない(笑)。

王朝継ぎ紙研究会 主宰
近藤 陽子さん

平安時代に作られた和紙工芸「継ぎ紙」を後世へと伝えていくことを目的に、お母様が創設された「王朝継ぎ紙研究会」を受け継がれ、主宰者として活動されている近藤陽子さん。
最期までお仕事を続けられたお母様のこと、晩年を施設で過ごされたお父様のこと、ご両親の介護についてお話しいただきました。

王朝継ぎ紙研究会
オフィシャルサイト▶

近藤さんとご両親のストーリー
  1. 2006年

    お父様が軽度の脳梗塞に

  2. 2014年

    お父様、老人ホーム入居

  3. 2016年

    お母様死去

  4. 2017年

    お父様死去

目次

  1. 仕事で飛び回っていた母、
    研究一筋だった父
  2. けむたい存在ではあったけど、
    母はすごかった
  3. 離れて暮らしていたけれど、
    母とはずっとつながっていた
  4. 脳梗塞で倒れた父、
    介護を取り仕切った母
  5. 最後まで現役だった、
    立派だった母
  6. 「僕もいっしょに
    帰っちゃダメかな」
  7. この家で、ひとりで死んでいく
    ことに何ら問題はない
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仕事で飛び回っていた母、
研究一筋だった父

45歳のときにライターになり、
作家に
母は、元NHKアナウンサーで作家の近藤富枝です。NHK連続テレビ小説『本日も晴天なり』(1981年)のモデルでもあったので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。アナウンサーだったのは戦時中のことです。戦後結婚し、私と弟をもうけて子育てをしながら、毛糸屋さんを営んだりしていました。東京女子大学出身で、同窓生が後の瀬戸内寂聴さんなんです。毛糸屋さんには一時期、寂聴さんも住んでいて、「一緒に毛糸の刺繍とかして売っていた」と話していました。
母は子育てをしながら週刊誌・懸賞小説などに投稿をしていて、いくつかに入選します。その縁から1967年、45歳で婦人雑誌のライターになり、ルポライターとして活躍しながら何冊かの本を上梓。そして、53歳のときに雑誌社を辞します。その後は作家のみならず、きもの学院の学監を務め、王朝継ぎ紙研究会を主宰、大学で古典文学を教えるなど、いつも忙しく働いていました。
東京女子大学時代の寂聴さん(左)と母
母の書いた“文壇資料三部作”。
母は、芥川龍之介が好きだった
父は帝国軍人、
後年は軍事史研究家となった
父は18歳で陸軍予科士官学校へ入学、陸軍大尉で終戦を迎えます。戦後すぐは復員局で働き、毎日死亡広報を整理しながら「全身全霊を打ち込んでいた戦争になぜ負けたのか、その原因はなんだったのか」という問いを繰り返していたと言います。そんな父に母も「なぜ負けたか、ちゃんと追求するべき」と助言していたようです。
自衛隊に入隊し、教官を務めた後に戦史編纂官となり戦史研究に従事。「なぜ、あの戦争に負けたのか」についての本を編纂します。60歳で退官後は本名の近藤新治、ペンネームの水島龍太郎、土門周平などの名で何冊も著す一方、複数の学会や研究会に所属して軍事史の研究を深めていました。
陸軍機甲科で中隊長だったと
思われる頃の写真
自衛隊の富士学校で
教官をしていた頃
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けむたい存在ではあったけど、
母はすごかった

遊びもせず、
ご飯を作っていた高校時代
とにかくすごい母でした。で、おだてるというか、人をその気にさせるのが上手なの。私が高校生の頃は雑誌のライターでしたが、その前から瀬戸内寂聴さんのデータマン(資料を集めて原稿の材料を提供する記者)もしていて、とにかく毎日忙しい。それで私に「外でバイトしても、もらえるお金は雀の涙よ。でも、家事をしてくれたらお母さんがちゃんと払ってあげる」と。その言葉にのせられて、高校時代は遊びもせず、家に帰ってご飯を作っていました。
父はとってもいい人で、お米を研いだり、帰りがけにお魚を買ってきてくれたり、率先して手伝ってくれました。役人だから、定時帰宅。母は不規則で、夜中12時回っても帰ってこないこともしばしばでした。けむたいときもあったけれど、素直に「お母さんはすごい」と、思っていました。
私は物書きには向いていなかった
通っていた大学は、在学中にお見合いして結婚する人が多かった。でも、私はそういうのはつまらないと思っていました。母は三姉妹であの時代には珍しくそれぞれ作家、歯医者、家業の会社を切り盛り、と仕事を持っていました。私には、みんながキャリアウーマンに見えた。だから、私も働こうと思ったのです。
卒業論文を書いたときに「私には文章力がない」とわかったから(笑)、母と同じ職業は無理。でも、編集の仕事は面白そうだったので、出版社に入りました。時は男女雇用均等法(1985年)のずっと前で、正社員ではありませんでしたが、それなりに楽しく働いて5年後に結婚。夫の転勤で東京を離れ、岡山に行きました。
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離れて暮らしていたけれど、
母とはずっとつながっていた

「王朝継ぎ紙」のために
岡山と東京を行き来
遠く離れると、普通なら疎遠になりますよね。ところが、この頃から母との関係がより深まるんです。「王朝継ぎ紙」です。
母はその頃すでに研究会を立ち上げていて、教室も開いていました。私も興味があったので、母が「専門の先生に教えてもらったら」と。しょっちゅう東京へ帰って教わっていたら、岡山の友人たちが「何してるの」って。みんなが「やりたい」と言い出したので、毎日のように集まって作るようになりました。みんな子育ての真っ最中だったので子ども達も家に来て、すごくにぎやかななかで、コツコツ継ぎ紙を作っていました。
  • 和紙を染めたり箔を撒いて装飾
    切ったり破ったり重ねたり継いで作ります。
  • 平安時代から今に残る
    王朝継ぎ紙
    『本願寺三十六人家集』
家族をとても大切に思っていた母
そうして1985年に東京へ帰って来ました。母は何冊も本を書いていて、きものや王朝継ぎ紙に関する活動や執筆、時にはテレビやラジオにも出演していました。父も執筆をはじめ、研究に関する会合や講演、カルチャーセンターの講師など活発に動いていました。両親は80歳になっても忙しくしていました。
自然に娘として、また秘書として公私にわたりサポートするようになります。ふたりはうれしかったと思いますよ。近所に弟も住んでいたので、また家族揃って過ごす時間が増えて。特に母は喜んでいるようでした。幼少の頃に両親が離婚し一家が離散した母は苦労した分、家族をとても大切に思っていたんです。
母の講演会の旅先にて。
娘とお嫁さんと手伝いに行ったとき
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脳梗塞で倒れた父、
介護を取り仕切った母

初めての介護は大変なことばかり
80歳を過ぎても元気で仕事をしていた父ですが、86歳のときに軽い脳梗塞を発症。予後、軽い認知症の症状が出始め、介護が必要になりました。そのときの介護の計画や手配についての仕切りは、すべて84歳の母がしたんですよ。介護認定の申請、ケアマネジャーさんや公的機関の利用のこととか全部調べて、いろいろ指示されました。動くのは私と弟です、もちろん(笑)。
自宅介護の最初の頃は私がお風呂に入れていましたが、体が大きいから大変で。訪問入浴サービスを頼んだら、「絶対入らない」って抵抗するし。デイサービスも嫌がるから、男の人の多いところで麻雀とか将棋とかができるところを探して。本当にいろいろ面倒で、大変でした。
カルチャースクールで最後の講義をする父
「陽子、ご飯はまだか」
の言葉にカーッ
家ではすることがないからずっとテレビを見たり、新聞をじっくり読んでいました。興味があるのは食べることだけになっていて、しょっちゅう「陽子、ご飯はまだか」って言うんです。その度にカーッとしちゃって(苦笑)。
当時は月に1度、京都に王朝継ぎ紙を教えに行っていたので、そのときはショートステイをお願いしたりもしましたが、何だかんだと京都にまで電話をかけてこられるのは、辛かったですね。大変でした。
資料のようなものを手に
初孫をおぶって近所を歩く父(60代)
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最後まで現役だった、
立派だった母

親孝行しないのも、
長生きしてもらうコツ?
母はずっと認知症の気配もなく、文字通りバリバリ仕事をしていました。『源氏物語』に継ぎ紙が登場することを見つけてから、より研究にも熱が入ったようです『源氏物語』については大勢の方が説を述べていらっしゃいますが、母にも母の説があり、何冊かの本を著しています。講演を依頼されることも多く、86歳のときにはNHKラジオの5回シリーズで『源氏物語』を語っていました。
年齢とともにさすがに体力は衰えたのですが、そんな母としょっちゅう喧嘩してたんですよ、私。そうすると母は怒って、車いすに乗ってプチ家出するの。秘書の方に車いすを押してもらって近所を散歩するだけなんだけど(笑)。でも、腹を立てるのもいい刺激ですよ。親孝行しないっていうのも、長生きしてもらうコツなんじゃないかと、思ったりしています。
女学校時代に出合った『源氏物語』は母の人生になくてはならないもの。大学やカルチャーセンターで講義したり、何冊か本も出しています
「陽子、もういい、死なせて」
2016年の7月、母は93歳で亡くなるのですが、本当に最期まで現役でした。前年の2015年は月に1度『源氏物語』の講義を行い、4月には関西へ旅行、奈良の吉野の中千本も観ました。ところが翌年4月に圧迫骨折して、心臓が弱ってしまいます。それでも母は「話したい」と言うんですよ。それで5月には家に生徒さんを集めて、最期の講義を行いました。7月に入ると、多分あの世とこの世を行き来していたようで、ときどき『源氏物語』についてつぶやいたりしていました。
そして、亡くなる2日前の朝のことです。いつものように母に素麺を食べさせようとしたら突然「陽子、もういい、死なせて」と言うのです。すぐに訪問医に来ていただきました。先生は「みんなにさよならしたいのであれば、病院へ」と言ってくださったので病院へ運び、孫たちも呼んで、みんなでさよならをしました。
最後の最後は、弟とふたり。母の耳元で「これから王朝継ぎ紙を死ぬ気でがんばるから、お母様安心して」と伝えました。多分、わかってくれていると思います。
そうして母は河童忌に、好きだった芥川龍之介の命日に逝きました。
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「僕もいっしょに帰っちゃダメかな」

孫の服を買うために、
父に会いに行く
脳梗塞の後も自宅で過ごしていた父は、2014年に老人ホームへ。認知症の症状も進み、私も高齢で在宅介護はもう無理でした。軍人だったこともあり武士言葉で、理性的に話し、家事も気軽に手伝ってくれた大好きな父がだんだん居丈高になり、我が強くなっていく姿は・・・悲しかったですね。
施設に入った最初の頃に「僕も一緒に帰っちゃダメかな」って言ったんですよね。今でも、その時の切なさを思い出します。連れて帰ろうって思ったんだけど、母と弟が「無理だよ」って。確かに、もうその頃は在宅介護をできる状況ではありませんでした。
1週間に1度は会いに行くようにしていました。施設の最寄駅近くに子ども服の西松屋があり、行きたくない気分のときも「孫の服を買いに西松屋に行こう」と思ったら、ずいぶん気が楽になりました。
母は会いに行けないときは手紙を書いて、父もヨロヨロした字で返事を書いて。ふたりはそんなやりとりをしていました。
父と母。たまに会うと楽しくおしゃべりしていました
死後、
全身がガンだったことがわかった
父はだんだん衰え、いつも朦朧として、私たちのこともわからなくなって、痛いとか痒いとかもわからないようになって、亡くなりました。96歳でした。死後、大学付属病院の先生が後進の指導のために解剖させてくれ、と言うので承諾しました。解剖後、「全身にガンが回っていました」と告げられました。私たちは老衰と思っていましたが、父は「痛い」ということもわからなくなっていたんですね。何もしてあげられなかったという無力感が残りました。
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この家で、ひとりで死んでいく
ことに何ら問題はない

私の3大親孝行
母に秘書として支え、「王朝継ぎ紙」を受け継ぎ、自宅で最後まで一緒に暮らしました。喧嘩ばかりして、親孝行しなくていい、なんて言っている私ですが、実は母にした3大親孝行があるんですよ。
一つは、亡くなる前の年の奈良の吉野行き。二つ目が、米寿の大パーティー。由緒正しい会場を手配して400名以上のお客様を招待、母のこれまでを振り返りました。そして三つ目が、隅田川の花火。絶好の場所に住んでいる息子の友人にお願いして連れて行ってあげたら、すごく喜んで。和歌を詠んでその友人に進呈するくらい、うれしかったようでした。
隅田川の花火 (※イメージ写真)
これからも、すべきことをがんばる

母を送り、父を送って思うことがあり、生まれてこの方運動なんてしたことなかったのにフィットネスクラブに通うようになりました。継ぎ紙は根を詰める作業で疲れやすいのですが、行くと体が軽くなってすっきり、体もポカポカ。通うのを面倒と思うときもあるけど、銀行や本屋、買い物などの用事を作ってここ数年、どうにか続けています。
今はひとりで暮らし、王朝継ぎ紙教室の仕事をしています。3人の子どもたちはそれぞれ自分の生活があります。私は基本的に、この家でひとりで死んでいくことに、何ら問題はないと思っています。気がついたらひとりで死に絶えている。それでいいとさえ思っています。
とはいえ、母から受け継いだ「王朝継ぎ紙」を次世代につないでいくという使命がありますから、まだまだがんばるつもりです。

母と私

※この記事の内容はすべて2024年3月の取材当時のものです。