介護用品・福祉用具のレンタルと販売 ヘルスレント

いま、親のいまを知ろう。

いま、思う私の介護
体験記
1

母には母の考えがあり、
暮らしがある。
それが当然だし、素敵だと思う。

母には母の考えがあり、
暮らしがある。
それが当然だし、
素敵だと思う。

エディトリアル・デザイナー
岡本 弥生さん

本や雑誌など、編集系の制作を行うデザインスタジオを主宰する岡本弥生さんは、10年前にお父様を見送り、約8年前から月に1、2度、静岡県三島市に住む92歳のお母様のもとへ通う遠距離介護の生活を続けています。
岡本さんに、ご両親との関係や介護について語っていただきました。

岡本さんとご両親のストーリー
  1. 1990年

    お父様がくも膜下出血で倒れる。手術後に回復

  2. 2012年

    お父様の体調が良くないため、
    2カ月に1度のペースで実家へ翌年介護認定を受ける

  3. 2014年

    お父様死去

  4. 2015年

    お母様の介護保険申請を行う(要支援1)

  5. 2016年

    この頃から月に1、2度、お母様のところへ通い始める

  6. 2024年

    お母様92歳、お元気でひとり暮らしを継続中

目次

  1. 私が二十歳のときに家を出てから、
    両親はずっとふたり暮らし
  2. 子ども時代の家族ドライブは、
    私の原体験のひとつ
  3. 穏やかで微笑ましかった退院後の
    父と母のふたり暮らし
  4. 父の介護をがんばる母、私の介護はそんな母をサポートするかたちで始まった
  5. 介護は会話が大切だと、
    つくづく思いました
  6. ひとり暮らしになった母は、
    自分のペースで暮らしている
  7. 歳を経て、母と私は友達になった
1

私が二十歳のときに家を出てから、
両親はずっとふたり暮らし

デザインの仕事がしたくて東京へ
私が生まれ育ったところは、静岡県三島市。父(1929年生まれ)と母(1931年生まれ)、6歳年上の姉と私(1961年生まれ)の4人家族でした。
父はサラリーマン、母は専業主婦というごく普通の家庭です。テレビで子どもに見せたくない場面が流れたら、サッとスイッチを切ってしまうような“昭和の家庭”でした(笑)。でも、「女の子は高校を出ればいい」という風潮が強かった当時の田舎で、「大学は行っておけ」と言ってくれていたんですよね。加えて、「手に職を持て、教員になれ」と。実際に、姉は教員になりました。
私はデザインと言えばお洋服という時代にポスターなどのデザインに興味があって、そっち系志望だったのですが・・・親に反対され、抗えきれず高校の系列の短大へ進んで教職課程を取りました。が、やはりデザインへの思いは断ちがたくて。「デザインの学校へ行く」と学費を貯めるためにアルバイトをしながら訴え続けていたら、両親も最後には認めてくれました。短大卒業後にデザイン専門学校へ行くために上京。以来、東京で暮らしています。
主に本や雑誌のデザインをしています
両親と暮らしたのはわずか20年
私が家を出た1980年頃から両親はずっとふたりで暮らしていました。その頃、ふたりとも50歳くらいですね。大学卒業後に県外で教職に就き、その地で結婚した姉が孫を連れてたびたび帰省しているのに対し、私は子どもを持たなかったこともあり、帰るのは長らく年に1、2度でした。
今考えれば、私も姉もそれぞれ20年ほどしか両親と暮らしていないんですよね。父と母は結婚してからの約60年のほとんどをふたりで暮らしていた・・・何か、感慨深いです。
丹精込めた玄関先の菊と定年後のふたり
2

子ども時代の家族ドライブは、
私の原体験のひとつ

小さな頃は父親っ子
仲のいい家族だったと思います。父はとにかくやさしくて、母は穏やかな人で、おしゃべりな家族ではありませんでしたが、まさに“昭和の家族”っていう感じでした。
父が自動車好きで、毎週休みのたびにあっちこっち、いろんなところへドライブに連れて行ってくれたんですよ。日産の『スカイライン』や『ブルーバード』に乗っていて、「車はこうやって動かすんだよ」なんて言いながら、ときどき運転の真似事をさせてくれたりして。そういうことが楽しい思い出として、いっぱい記憶に残っています。
小さな頃は父親にべったりで、すごく懐いていましたね。なのにその後、思春期になって父親を敬遠しだすんですが(苦笑)。
ほとんど隠れていますが(笑)、父自慢の自動車と記念撮影
結婚してからA級ライセンスを取得
18歳になって自動車免許を取得。子ども時代の経験、父の影響もあって運転するのが大好きでした。さらに、28歳のときに結婚した同業の夫がスポーツカー好き、まわりの友人たちにも同じ趣味の人が多かったこともあって、自然な流れでA級ライセンスを取得したんですよ。これは自動車レースに参加できる資格で、あの頃、1980年代に流行っていたんですよね、女性がA級を取るのが。
友人が乗っていたイタリアのスポーツカー『アルファロメオ』がカッコよくて、新車のオープンカーを購入しました。もちろん、買った当初は“田舎の普通の人”である父母には内緒ですよ(笑)。その後、サーキットでの体験走行に夢中になって、ライセンス車(モータースポーツ競技への参加資格のある車)を作って競技大会に出たり、仲間とロングツーリングに出かけたり。結婚してから、どっぷり車遊びを楽しんでいました。
父がくも膜下出血で倒れたのは、そんな頃です。
車雑誌の記事によく取り上げてもらいました
3

穏やかで微笑ましかった
退院後の父と母のふたり暮らし

両親のこれからを
考えていかなければ
倒れたとき父は、60歳前後でした。緊急手術をすることになり、姉は前日から泊まり込み、母のそばで細やかにサポートしていました。ところが私ときたら、手術の当日に派手な車で帰って「大丈夫?」みたいな能天気な調子で(苦笑)。
幸いにも父の手術は無事成功、後遺症もなくその後は家で療養生活を送ります。さすがに私もたびたび帰省していたんですが、母から見たら車を飛ばして帰ってくる娘が能天気に見えたんでしょうね。1度だけ、叱られたんですよ。「お父さんは大病したのに、あなたは何も変わらない」みたいなことを言われました。そのとき思ったんです。「あっ、ふたりのこれからのことを考えていかなきゃ」って。
ふたりで仲良く畑仕事
実は、岡本は私の姓です。跡を継ぐというより、私が岡本という名前から離れたくなかった。親離れができなかったというか。姉は長男の方と結婚して姓が変わった。子どもを持つ予定はないけれど、私までは残しておこう、お墓を守ろう、となんとなく考えていて。父が倒れたことをきっかけに、その思いは深くなりました。
とはいえ、退院後の父はとっても元気(笑)。体に気をつけながら、ふたりで土いじりを楽しんでいました。母の実家が山の方で、すごく大きな家庭菜園があったんですよ。ふたりでいっぱい作っていましたね。お野菜をいっぱい送ってきてくれたし、夏になるとスイカを採りに帰ったりしていました。
今回、この取材のことがあり、実家で写真を見ていたら、ふたりで旅行していた写真が何枚か出てきたました。畑仕事をしながら、ときどき旅行を楽しんでいたようです。いい時間だったんじゃないかな。
4

父の介護をがんばる母、
私の介護はそんな母をサポートする
かたちで始まった

父は少しずつ、
動かなくなっていった
そんな穏やかな日々を過ごしていた両親でしたが、父が70代に入るとだんだん家庭菜園から遠ざかります。父方は心臓が弱い人が多くて、父も心臓肥大になってきたようで、体に負担がかかることができなくなってきて。それでも家のまわりでお花を育てたり、植木をちょこちょこいじったり。日曜大工とか手を動かすのが好きだったので、自分が育てたひょうたんを乾燥させて色を塗ったり、いろいろ加工して楽しんでいたんですが、少しずつ少しずつ父は動かなくなり、衰えていきました。
父の介護に懸命だった母が
疲れていく
父の面倒は、母が全部みていました。3度の食事、薬のケア、お風呂や通院など、ずっと父に付き添っていたんですが、電話のたびにグチが増えてきて、10kgも痩せてしまって。病人がいると、やっぱり家の空気も沈むのか、精神的にまいってしまっていました。
「これはいけない」と、姉と相談。それからはしばしば帰って母の代わりをしたり、時には父を留守番させて、母を連れ出したりするようにしました。父はというと「何かをしたい」という気力はなくなりつつも、「病院には行きたい」と。その数年前に義父が療養の後に亡くなって、介護に関する情報が多少なりとも頭に入っていたので、「だったら訪問医、訪問介護というのもあるよ」とすすめるけれど、「それはいやだ」と当初はなかなか聞いてはくれませんでした。
父は、自分で育てたひょうたんでいろんなものを作っていた
5

介護は会話が大切だと、
つくづく思いました

ようやく、
介護保険の認定を受けてくれた
「介護保険というものがあって、それを利用するといろんなケアやサポートが受けられるんだよ」と、施設の見学に連れていったり、介護ヘルパーさんのことを説明したりするんですが、母が「家に人を入れるのはいやだ」「施設に入れたくない」、父も「そういうのに頼るのは恥ずかしい」と。10年ほど前は介護への理解は今ほど進んでおらず、昔気質の人なのでこちらの提案はことごとく却下です。
父が家の中のちょっとした段差で転ぶので、私がホームセンターで調達したもので段差を解消する造作をちょこちょこやったりしてました。父の血でしょうか、私も日曜大工が好きなんですよ(笑)。そうこうしているうちにお布団での寝起きが難しくなって、ようやく介護保険の認定を受けて介護ベッドをレンタル、訪問介護にかかることになりました。
父が訪問介護を受けていた事業者からの誕生プレゼント
父とたくさん会話するようになった
父親っ子だった私は思春期の頃にはあまり父と口をきかなくなり、二十歳で家を出てから何十年もちゃんとした会話をする機会がなかったのですが、介護をするようになってすごく父と話すようになるんですね。より快適に気持ちよく暮らしてもらいたくて父のしたいことを聞き、どうすればいいか話し合ったりするうちに、気軽におしゃべりをする関係になれた。このことは、本当にうれしかったですね。
父は晩年まで運転していました。危ないので運転するときは同乗していたのですが、運転上手だった父が、いろんなところへぶつけるんですよ。危なかったし、切なかった。ある日、車庫入れのときに壁にぶつけて、ようやくやめてくれました。それからしばらくして、父は亡くなります。介護保険の認定を受けて約1年後、85歳でした。
6

ひとり暮らしになった母は、
自分のペースで暮らしている

手をつないでいたふたり
母の実家は、『ポツンと一軒家』みたいな山の中の集落。そこに電力関係の会社に勤めていた父が仕事で行き、ふたりは出会います。もう70年も前のことです。そして、子育てが終わってから、父が亡くなるまでずっとふたり。
昔の人なので、すごく仲良し夫婦というようには見えませんでしたけど、とても印象的な写真があったんです。私が高校生のときに自宅の地鎮祭で撮った写真なんですが、父と母が手をつないでいるんですよ。「自分たちで家を建てるんだ」というふたりの思いがそうさせたのかな、と想像すると、胸が熱くなります。
「そんなに帰って来なくていいよ」
父が亡くなったとき母は83歳、すごく元気でした。ひとり暮らしになるから、介護保険の認定を受けておいた方がいいかなと思って役所へ行ったのですが、担当の職員に「お元気だから、まだいいんじゃないですか」とやんわり断られたくらい(笑)。
その後に要支援1を受けるのですが、とにかく元気なんですよ。ずっと手芸を楽しんで、草花を育てて、いつも何か手を動かしています。最初の頃は心配だったので姉と相談しながら、毎週末に帰るようにしていました。ドア・ツー・ドアで約2時間なので、運転好きの私としては苦にならない、むしろ楽しんで帰っていました。ところが1年、2年と経つと「そんなに帰って来なくていいよ、自分でいろいろやりたいから」と母が言ったんです。帰ってきてくれるのはうれしいが、やはり気を遣う。そういうことも面倒だと。もっともだと思いました。
手をつないでいた地鎮祭の写真は残念ながら見つからず
7

歳を経て、
母と私は友達になった

母には母の暮らし、
私には私の暮らし
以前は「そのうちに実家へ帰って母と暮らすか、東京へ呼び寄せよう」と考えていたのですが、母は「帰って来なくていい、その時が来たら自分で老人ホームへ行くから」と言います。三島は母が生まれ育った場所、親戚がまわりに大勢住んでいて、ご近所付き合いもあるから心地よく暮らせているんですね。母の言うことは「そうだな」と、とても納得がいくと同時に、自分のことも考えさせられました。年上の夫は持病があるので、順番でいくと最後に残るのは私だろう。
その私が今から全力でいろいろやっていたら疲れてしまう。誰かのためでなく、自分をベースにこれからのことを考えなければいけないな、と。
今から5年前、母と夫と山梨にサクランボ狩りに
「この子とは友達」
二十歳で家を出て28歳で結婚するまで、母は毎週末に必ず電話をくれました。今、母は93歳。これまでもいっぱい話してきましたが、他愛のない話など今が一番いろんなことをおしゃべりしています。
この間、隣町に住む母の姉が訪ねてきたときに、「この子とはもう友達みたいなものよ」と母が言ったんです。それがなぜだか、すごくうれしかった。これからも母と友達みたいに仲良く、楽しい時間を過ごしていきたいですね。
私は最後には、三島に帰るような気がします、父と母のいる三島に。やっぱり、何かとつながれる、そんなふうに思うんです。
手先の器用な母は、ずっと手芸や植木いじりを楽しんでいる
※この記事の内容はすべて2024年3月の取材当時のものです。