介護用品・福祉用具のレンタルと販売 ヘルスレント

いま、親のいまを知ろう。

いま、思う私の介護
体験記
2

介護する側の
“痛みや後悔が少ない介護”、
という視点も大事だと思う。

介護する側の
“痛みや後悔が少ない介護”、
という視点も
大事だと思う。

音楽家
向島 ゆり子さん

ヴァイオリン、ビオラ、アコーディオンによるパフォーマンスから作曲や編曲、そして舞台の音楽監督まで。幅広い音楽フィールドで活躍されている向島ゆり子さん。
音楽活動を続けながら取り組まれた10年以上にわたる“一人っ子介護”体験についてお話を伺いました。

向島ゆり子さん
オフィシャルサイト▶

向島さんとご両親のストーリー
  1. 1984年頃

    二世帯同居スタート

  2. 2008年

    ご両親が老人ホーム入居

  3. 2009年

    自宅に戻る
    お母様の介護保険申請を行い介護が始まる

  4. 2015年

    お母様死去

  5. 2016年

    お父様脳溢血で半身麻痺

  6. 2020年

    お父様特別養護老人ホーム入居

  7. 2021年

    お父様死去

目次

  1. おもちゃのピアノと
    祖父のヴァイオリン
  2. 遅れてきた青春!?
    60代になり、母が弾ける
  3. ある日父が、「お母さんがボケたから施設に入ろうと思う」と
  4. 「あなたは、どういうサービスを受けたいですか」と、聞かれる
  5. 子育てと同じように、
    介護も人それぞれですね
  6. 「お父様は、確実に老衰に向かわれておられます」
  7. すべて終わったときに思ったのは
    「次は自分なんだな」ということ
1

おもちゃのピアノと
祖父のヴァイオリン

防空壕の中で
ヴァイオリンを弾いていた祖父
遅くできた一人っ子ということもあって、両親にはすごく可愛がられました。
私が3歳の頃、おもちゃのピアノで知っている童謡を全部弾いたんですって。そしたら、「これはすごい!おじいちゃんのヴァイオリンがあるから、それを弾かせよう」となったそうです。親バカでしょ(笑)。祖父は軍人です。戦前フランスの大学に国費留学していたときにヴァイオリンに出合い、戦時中は「この戦争は負けるよ」と、防空壕の中でヴァイオリンを弾いていた人。もちろん祖父のものは大人用ですから、子ども用を買い与えてくれて教室に通うことに。その時私が「ピアノもやりたい」と言ったそうです。
3歳の七五三。祖父母と父と、縁側で
3歳からずっと音楽が私の中心
30歳を過ぎても子どもができず、時間に余裕のあった母が、幼稚園の先生の免許を取ろうと購入したピアノが家にあったんです。それで3歳から、ヴァイオリンとピアノを始めました。
その頃、NHKの音楽のレッスン番組のオーディションがあって、母が面白がって応募したら受かったんです。そこで著名な先生と出会い、師事することになります。その一方、オーケストラにも参加してジャズや前衛音楽などいろいろなことを学びました。そのうちにクラシック以外への興味が強くなり、十代の頃にはアドリブのできるヴァイオリニストとして声がかかるようになります。今でこそヴァイオリンはポピュラーになりましたが、1970年代はクラシック以外で演奏するヴァイオリニストは少なくて、結構重宝がられていました。
5歳の頃、家の前で母と
2

遅れてきた青春!?
60代になり、母が弾ける 

二十歳で家を出され(?)
結婚して二世帯同居に
大学生になった私は勉強もそこそこに音楽のアルバイトをしたり、ジャズスクールに通ったりして毎日楽しく、忙しくしていました。でも、父からすれば遊んでるようにしか見えなかったんでしょうね。ある時ついに切れて「出てけー!」。こちらもアルバイトで稼いでいたので売り言葉に買い言葉、「じゃあ、出ていきます」と。若かったので、親の気持ちも考えずで(苦笑)。
家を出た(出された)後、若干のギクシャクはありましたが、26歳のときに結婚、程なく子どもが生まれ、自然とスムーズな親子関係に戻りました。
そして両親が60代前後のときに家を建て直そうとなり、「二世帯にしようか」と。小さかった息子と娘、夫と実家に戻りました。
音楽活動に夢中だった20代前半の頃
母、60代にして自転車に乗る
ちょうどその頃大層厳しい人だった祖母が亡くなったことで両親、特に母が弾けたんです。母の名前は「きょう子」。親戚の間で「意思強固」と言われるくらい堅物な人だったんですが、突然、別人のように可愛い人になって、コーラスやシャンソン、麻雀、囲碁、体操教室・・・若い娘のようにいろんな習い事を始めます。驚いたのが、自転車。子どもの頃に許されず、強い憧れを抱いたまま大人になった母は、60代にして練習を始め、ついに乗れるようになるんですね。朝の4時、5時に起きて近所の人気のない緩やかな坂道で、毎日毎日練習していました。ある日、早朝に家を出ることがあってそんな母の後ろ姿を見たんです。ゆっくりゆっくり、自転車で下っていく後ろ姿を見ていたら愛おしくて。本当に可愛い人でした。
3

ある日父が、
「お母さんが
ボケたから施設に入ろうと思う」と

子どもを保育園に送り出すような
気持ちで送り出す
両親一緒の習い事も多かったので、食事会や新年会、山登りや泊まりがけの麻雀大会、年に数回海外旅行へ行くなど、ふたりで楽しんでいました。ところが80歳を過ぎた頃、母は足が悪くなり、習い事を少しずつ減らします。また、会社の顧問としてそれまで週3回出社していた父も、毎日家にいるようになり、楽しそうだったふたりの関係が変わってしまったんです。
ある日父が「お母さんがボケたから施設に入りたい。インターネットってやつで見つけてくれ」と。母からは「お父さんがケチになっちゃって、お財布を渡してくれないの」という愚痴を聞いたりしていたので、戸惑いました。母は認知症には見えなかったし、嫌がっていました。でも、父は言い出したら聞かない人で。母も最後は「しようがない」と諦めました。
父に言われた予算や条件に合う2人部屋の老人ホームをどうにかこうにか見つけて、送り出しました。「大丈夫かしら?」「お友達できるかしら?」と心配で。「あれ、これって子どもたちを保育園に送り出したときと同じ気持ちだ」、と思ったことを覚えています。
母と(孫)娘夫婦と家族旅行
わずか1年で、母は歩けなくなっていた
無事入居はしたもののそこは認知症の方が多い施設で、そのことが父を苦しめます。一見ふつうに見える人に怒鳴られたり、意地悪されているうちに父はノイローゼ状態に。半年たった頃には「お母さんを置いて、僕は帰ろうと思う」と言い出します。さすがに「それはないでしょう」と抗議しました。仕方なしに父に従った母が、あまりに可哀想です。
それでも父の気持ちもわかるので「ふたりで家に帰ろう」と。母はすごく喜んで、満面の笑み。ところが、施設でずっと車いすだった母はすっかり歩けなくなっていて、さらには持病の腎臓病が進行し、腎不全になってしまっていました。
母と(孫)娘夫婦と家族旅行
4

「あなたは、どういうサービスを
受けたいですか」
と、聞かれる

初めての老人介護支援センター
小学生の頃、母が祖父の介護をしているのをずっと見ていたので、どれだけ大変かはわかっていました。「ゆりちゃんは一人っ子だから、ひとりで面倒を見ることになるのよ」と母に言われていたので、ある種の覚悟もあり、「とうとう現実になるんだな」というのが当時の心境でした。とはいえ、介護に関しては白紙状態。すぐさま最寄りの老人介護支援センターを訪ねて相談すると・・・思いがけない言葉をかけていただいたんです。
「あなたは、どういうサービスを受けたいですか」。
つまり、「どんなサービスを受ければ、私が仕事を続けていけるか」ということを聞いてくださったんです。介護が始まったら、当然仕事は続けられないと思い込んでいた私は驚きました。
母の認知症が少し現れだした頃。
近所の喫茶店で仲良しのお友だちと
母は最後まで可愛かった
不規則な音楽の仕事をしている私のスケジュールに合わせて、デイサービスやヘルパーさん、ショートステイをお願いし、腎不全の母の食事は、私がすべて作りました。ヨーロッパなど遠くは控えましたが、近場の海外演奏などの仕事も続けました。
引っ越しで環境が変わると認知症の進行が早い、という話を聞きますが、母もそうでした。住み慣れたわが家から施設へ、そして1年で帰って来た家も環境が変わっていた。以前2階だった部屋を良かれと思って1階に移していたんです。母の認知症はどんどん進みました。ただ足が悪かったので徘徊することがなく、子どものようにニコニコ、可愛らしい症状だったことは救われました。母は最後まで父にオムツを替えさせなかった。お尻を見せたがりませんでした。いろんなことを忘れても、父への恥じらいが残っていたんでしょうか。
2014年、89歳で母は逝きます。家族みんなで最期を見守りました。昏睡状態の母に娘の夫が「おばあちゃん」と呼びかけたら、母が笑ったんです。母らしい可愛らしい笑顔で。「(これまで)生きていてくれて本当にありがとう」と思いました。
5

子育てと同じように、
介護も人それぞれですね

怒りっぽくなっていった父
母が亡くなったとき父は90歳。要支援の状態で元気に過ごしていました。10人兄弟の父の家系は元気で、90歳100歳を超える長生きの人も多くて、そんなに心配していなかったのですが、翌年脳梗塞に。利き腕の右側に半身の麻痺が残りました。糖尿病の持病があったんですが、インシュリン注射を自分で打てなくなってしまい、困りました。お医者様に相談すると標準体重を近づければ注射の必要はなくなると言われたので、とにかく栄養士に指導された通りの食事づくりをがんばりました。
そうこうしているうちに、父にも認知症の症状が出始めます。母の経験があったので、対処できると考えていましたが、甘かった。父は怒りっぽい症状で・・・辛かったですね。子育てもそうだけれど、介護も人によってこんなに違うんだ、同じ考えではできないんだと痛感しました。
戦争のことを語らなかった父
ショートステイ先で転ぶことが増えたことから、父を施設にお願いすることに。2019年のことです。翌年コロナ禍となり、面会ができなくなりました。でも父は、「こんなもの戦争に比べればなんてことない」と気丈に言うんです。
父は学徒出陣で戦争に行きました。でも、戦争のことを口にすることはありませんでした。孫が宿題で戦争のことを聞きたいと言ったときも「おばあちゃんに聞きなさい」と。私が小さな頃、父の戦友家族と交流があったのですが、“戦友”という言葉は耳にしても、戦争自体の話を聞くことはありませんでした。おしゃべりな人なんですよ。大概のことは、楽しく話してくれるんですが・・・本当に嫌なことしかなかったんだと思います。
父がずっと大切にしていた
三好達治『朝菜集』の初版本
6

「お父様は、確実に老衰に
向かわれておられます」

「また、点滴する?」「今度はいいかな」
結石だなんだと何回か入退院を繰り返しながらも、父は施設で健やかに過ごしている。私たち家族はそう思い込んでいたのですが、そうじゃなかった。ある時施設から電話が入ります。「お父様は、確実に老衰に向かわれておられます」。
でも、その頃も父と会話はできていたんですよ。それで「お父さん、あんまり調子良くないんだって。どうする?入院する?」と言うと、「なんか、点滴でもしてもらおうかな」と言うので入院することにしました。すると病院の方も「お父様は、確実に老衰に向かわれておられます」って。「要望されるので点滴しますが、またすぐに同じことが起こりますよ」って。でも、点滴をすると元気になるんです。ほら見ろ、どこが老衰なのよって思っていたのですが・・・。入院して2回点滴して、また調子が悪くなったので「お父さん、点滴する?」って聞くと、「うーん、今度はいいかな」って。なんかよくわからない、わからないけどそう言ったんです。
「あんた誰?」が最後の言葉
それから数日後に施設から看取りの同意書についての話がありました。会うと元気なのに死ぬなんて、と思いつつも同意書、契約書を書いて、また数日後に会うと父の顔が変わっていた。「あっ、この顔、私知ってる」と思いました。亡くなる直前の母の顔と同じでした。
唯一残っている父の90歳の弟に連絡しました。叔父様夫婦はすぐ駆けつけてくれました。父はとてもご機嫌で、いっぱいおしゃべりしたらしく叔父様が「ゆりちゃんが言うから驚いて来たけど、大丈夫だね」と。その日は息子も会いに行って、「おじいちゃん、冗談言ってたよ」って。
でもその翌日、私が行くともうほぼ意識がなくて。最後の父の言葉が「あんた誰?」だったんですよ。それで逝っちゃって・・・あれが最後かと思うとショックでした、でも父とは何か深い魂の部分で、繋がってる気がするんです。
7

すべて終わったときに思ったのは
「次は自分なんだな」ということ 

悲しむ間もなくお葬式
介護が終わったらすぐ葬儀です。母のときも父のときも、泣いている暇はありませんでした。もちろん、家族の手伝いはありましたが、一人っ子なので手続きや手配、いろいろな判断も全部ひとり。葬儀が終わっても初七日、四十九日、お墓だなんだと、落ち着くときがありませんでした。ゆっくり泣けないようにできているこういった日本のシステムはありがたいけど、ちゃんと泣けなかった、考えられなかったというのは心残りでした。なので、今回のこの(インタビューの)機会を与えていただいて、やっと振り返ることができて、感謝しています。
パソコンのデスクトップに子どもたちへのフォルダ
介護から看取り、最期のときまで、家族は考え、決断しなければならないことの連続です。介護される人が主役であることは間違いないけれど、介護する側の痛みや後悔の少ない介護という視点も大切だと思います。たくさんの選択肢の中で、本人の意思が確かめられない状態だったら、次は今実際に介護してる人が悔やまないで済む選択肢を選ぶ、という考え方。そうじゃなくても、たくさん後悔するのが介護ですから。そういう意味では私は一人っ子で良かったなぁ、とも思います。
両親を介護しているときは、介護が終わったら、自由な時間を得たら、音楽家として何をやろう、と考えていたのですが、実際に見送った後にまず思ったのは「次は自分なんだな」ということでした。ひとまず、パソコンに娘と息子の名前のフォルダを作って、いろいろ残しています。私のこと、介護のときに思ったことも、折に触れて話していきたいですね。

※この記事の内容はすべて2024年3月の取材当時のものです。